聴覚障害者のコミュニケーションの取り方が違うことにあたって

こんにちは。流です。

久々の聴覚障害に関する記事になります。2年間に渡り旅をしていましたがいろんな人にあったり聴覚障害に関する本を見てたりでいろいろ思うことがありちょうどある本を読み終わる頃にこんな記事があがりました。

これには発音ができる、できないそして手話ができる、できないでのコミュニケーションの取り方、考えが色々とあります。

そこで、発音ができて、かつ手話ができなく聴こえない自分の考えや聴覚障害者のコミュニケーションの取り方が人によって違う背景をいろいろ述べていこうかと。

その人に合ったコミュニケーションの取り方でやるしかない

結論から言うと成人して言語を取得した以上、その人に合ったコミュニケーションを取るしかなく、コミュニケーションの取り方を聴覚障害者全体でそろえるのはまず不可能なので手話にしろ口話にしろその人に一番やりやすいコミュニケーションの取り方をするしかないということである。ここで注意なのは私は手話が良いからあなたも手話をと、あるいは口話が良いから口話をと、押し付けないことである。そしてこれが意外とあるのですが逆に手話はダメだ、口話はダメだと批判をして禁止させたり押し付けをするのも良くないと思っているのが自分なりの答えです。

自分のコミュニケーションの取り方について

まず、自分は手話ができません。だからコミュニケーションの取り方はだいたいがPCやスマフォでの文字起こし、チャットか筆談、僕が発音をすることは結構ありますが場合によってはしません。ただ、手話自体は覚える気は今は無いですが手話そのものも否定しません。というか、はっきり言えばコミュニケーションの取り方で○○がダメという否定的な考えがそもそも嫌で、本人に合ったコミュニケーションの取り方で取れば良いと思ってるのが本音です。

インテグレーション教育で育ってきたので以前は口話法でした

聴覚障害者におけるコミュニケーションでいわば手話法や口話法(聴覚活用や読唇術を用い聴者と同じように口で話して会話をすること)があるが僕は後者でした。インテグレーション教育、つまり聾学校に行かず普通の地域校に通っており口話法で生活を送ってきたということになります。ただ、ご存知の方もいますが、このインテグレーション教育は必ずしも成功するとは限らないのです。聴覚活用が難しく結果的に発音がちゃんとままならないことも多々あります。

人権侵害に当たる

コミュニケーションの取り方において否定するのはある種の人権侵害に繋がるのでは無いかと感じているのが僕の率直な感想です。というのもその人のコミュニケーションの取り方は今までにやってきたやり方であっていわば生き方の1つでもありえるのです。それを否定するのは分かりやすく言うと英語圏で育ってきて英語を第一言語にしてる人に英語使うなと言ってるようなものです。

コミュニケーションの取り方が違う背景

聴覚障害において手話、口話法での優劣というのは長い間議論になってて更にはトータルコミュニケーションとかもあって右往左往してたからです。聴者には分かりにくいことなんだけど実はここ100年はそうなっていました。ただ、僕は口話法をメインとするインテグレーション教育で育ってきたから実は聴覚障害の教育の歴史は旅をする前はほとんど知りませんでした。

では何故議論が起きるのか

口話法も手話法も成功例が少なく多くの聴覚障害者が苦しみ、更には日本語がちゃんとできないことから学力の向上にも影響がかなり多く、学力が低い聴覚障害者が総じて一定数いるからである。そして口話法から途中で手話法に切り替わる(あるいはその逆)とセミリンガルつまりダブルリミテッド問題が勃発するからである。だから口話法にも手話法にもどちらかに決めた以上、片方を止めろという声もある。

手話は一つだけではない

そして、手話は実は一つだけではないのです。これも議論の的になり、日本手話と日本語に対応した日本語対応手話があって、手話法でもこれが度々あがり、特に手話をコミュニケーションのメインに使う方は日本手話を使い、日本語対応手話を嫌う方が多く禁止させようとすることもある。言うまでもなく日本手話は一つの言語である。日本手話は日本語と違う言語と捉えるとそこからどうやって2つの言語の間で翻訳ができるのか翻訳しきれない部分もあるのではないかということである。例えば、頭が固いという身体の一部を使った慣用句は手話ではそのまま表現するのか別の表現をするのか、これがどういう意味だとどういう風に理解させるのか疑問に感じてるとこである。

世間が思ってるよりも聴覚障害者は手話ができる人はそう多くない

それは長い間、口話法が主流だったり人口内耳や補聴器の活用によってインテグレーション教育や口話法を選択する人たちがいたからである。また、成人して聴こえなくなる方も少なくはなく手話が第一言語ではない方も少なくない。よく聴覚障害者=手話と思う方がいるが実際はそうじゃないということを分かっててもらいたい。

僕が手話をやらない理由はこういった現実を知って欲しいからである。僕が聞こえないのに手話ができないと答えると大半は不思議に思う方がいます。だが、残念ながら今まで会ってきた人の中で僕が手話できないということを知った時にその話は止まるのである。結果だけしか見なくて、その背景を知ろうとしないのである。聴覚障害者でも手話をできない、やらない、覚えない理由や背景、歴史に目を向けない人がほとんどなのです。

口話教育が発展した理由

大正時代に手話を批判した口話法が台頭したのですが、口話教育の父と言われた西川吉之助氏は娘さんのはま子氏に手話をやらせるのはひどい手真似だと思い、口話法の元となる読話と発音をさせるためにいろいろと行動や口話の訓練をさせてました。その中で、ちゃんと発音させるように指を突っ込んで声を出させるようにしてたこともありました。そして手話は禁止していたのです。そのはま子氏が口話ができるようになり吉之助氏といろいろ全国を回っては成功例として講談などをさせていたのです。これが口話法が発展した理由の一つでした。

吉之助氏は最終的に自殺した

しかし、はま子氏がある程度成人してから、教育者として手話教育に身を投じたのです。つまり、手話を禁止していた口話教育の吉之助氏の教えにもろに反対するする考えとなったのです。吉之助氏は最終的に自殺したのですが家業が傾いたからなのかこの彼女の行動が原因だったのかははっきりしてないのですが相当にショックを受けていたのは間違いないでしょう。自分が娘の為によかれと思ってやったことに対しての反発になる行為なのですから。

口話法をメインにしてた時代は体罰もあった

こうして口話法が主流だった頃、手話が禁止になっていた聾学校もあったそうです。中には授業中に手話をさせないために手や腕をイスに縛るとこもあったそうで、休み時間に手話を使えば先生にぶん殴られるという話もありました。だいぶ前の時代だったから殴られたりするのもあったのでしょうか。

補聴器や人口内耳の普及

戦後に補聴器や人口内耳が普及したためにますます口話法に集中することになり、更には聾学校に通わず口話法をメインとしたインテグレーション教育を選ぶ方も増えてきたのです。それに伴い聾学校に通う聴覚障害児も少なくなり聾学校の閉鎖、縮小、特殊支援学校統合が更に選択肢を狭める循環になりました。また、聴こえない子どもの大半は聴こえる親から生まれることもあって聴覚障害に詳しくない親御さんが専門家や医者の声に従うことも多く聴者と同様に話せるように必然的に口話法が選ばれやすかったのも事実でした。

口話法やインテグレーション教育が及ぼしたもの

しかし、口話法やインテグレーション教育をやっても聴こえない子どもはいくら頑張っても聴こえる人にはなれなく耳で言葉を覚えるところに障害がある以上どうしても日本語の習得に差が出てしまい、結果として年齢相応の学力がつくのはかなり難しく社会に出れなくなりやすい問題が出たのです。また学力がつかないことや中途半端にしか聴こえずコミュニケーションがまともにとれないことは人間関係にも支障を伴い人格形成にまで大きく影響をあたえてしまうのです。

インテグレーション教育の成功例の少なさ

これは自分も経験したのですが10年ほど前に在学していた大学(実際は大学ではないが似たような学校)で、聴覚障害者が入学したのは長い歴史でも自分が初めてでした。また歳が近い別の国立大学に在学していた知人もその大学では初めてだったとのことでした。つまり、大学進学において今まで成功例が無かったということです。(あくまでも当時ので、それも一部の大学での話しですが)そしてこういったインテグレーション教育を受けた子で成功した人をインテグレーションのエリートと比喩表現することがあります。

インテグレーションのエリート

こうしてインテグレーション教育で話せるようになったり話せなくても手話ではなく日本語が出来て大学に進学したり社会に出て仕事に就けたり結婚したり社会的に成功したのがインテグレーションのエリートとして言われるのですがこういった成功例はやはり少ないのにそれを専門家や医者に成功例として使われることも多く、これをインテグレーション教育の道に進めてしまうこともあるのです。実際は数多くの失敗があるのにですが。またインテグレーションのエリートでも人格はどうなのか、障害認識はできてるのか言うとこれまた難しい問題であり比喩表現として使われてるのも事実ででした。実際、ずっと聴者の世界で生きていたため障害に対して認識がちゃんとできずアイデンティティ崩壊する例も割と多く、自分も18になってようやく認識するようになったもんです。

手話法が出つつある

こういったインテグレーション教育の失敗例が数多くあり人格形成にまで影響を与えてしまいいろんなとこから度々インテグレーション教育の批判が上がりインテグレーション教育としては限界があるということになり、手話法が良いという話が出てきて、日本手話を主流にするようにと運動があがったりするのでした。そして1995年にはろう文化宣言が起きたのです。

ろう文化宣言

これは分かりやすく言うと「ろう者とは日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」という宣言でつまり耳が聞こえない人=ろう者ではなく日常的に使ってる言語が日本手話の人=ろう者ということである。そうしてはっきりと日本手話が1つの言語と認め、更にその言語を使うことで一つの文化となることである。つまり文化として成立することで日本語対応手話の区別や除外、トータル・コミュニケーションを批判することのきっかけの一つになったのではないかと思います。

トータル・コミュニケーション

1970年代にトータル・コミュニケーションという理念が出たのですがこれはコミュニケーションの成立が優先でそのためにはコミュニケーションを制限すべきではないという理念でした。これは結果的にまっとうでありながらあいまいな理念でもあったために残念な結果になり中途半端な言語になってしまったのでありました。本来、音声言語と別な言語である手話を同時に話すのは不可能だからどうしても中途半端になりやすいため日本語対応手話は禁止にすべきということでした。これは海外でもそうでアメリカで約20年間導入したが結果はかなりの不出来で大統領への報告書でも受け入れがたいほど不十分とのことと報告されていました。

日本手話を第一言語にした手話法の台頭

そうして平成に入り(ここら辺は時代が曖昧すぎて何とも)から日本手話を第一言語にという手話法が聾学校とかでも主流になってきたのです。日本語対応手話は曖昧になりごちゃごちゃになりかねないから禁止というのがほとんどで、日本手話を第一に使う方にとっては日本語対応手話を使うなとか毛嫌いする方は今でも少なくないと思います。

日本手話に伴い書記日本語も重要になったのである

日本手話だけ覚えてもそれだけだと日本語を第一言語にした聴者の世界では残念ながら生きていくのはかなり厳しいです。別物の言語だからです。だから日本語に対応できるようにと書記日本語というのが出てくるのですがこれが中々厄介でちゃんとできない、つまり日本語がちゃんとできないろう者も少なくは無いということでした。数年前に新聞の記事にも上がったのですがろう学校からの就職者で日本語が変でおかしかったり敬語とかが上手くできなかったりというのが上がりました。そしてその日本語を直すためのフリースクールみたいなのが出来たのが記事の内容でした。

書記日本語が変

例えば比喩表現、部分否定、二重否定、仮定、助詞などの理解が難しかったりすることが多いそうです。更に言えば二重否定は手話通訳でも困る表現とのことでした。一つの動詞に複数の意味があるのも理解できないことも多く動詞一つを単調な意味でとらえてしまうことも。更には先に挙げた身体を使った慣用句もそうでした。

自分は手話については経験がほとんど無いので文献を参考にしてるのでこのくらいしか言えないですが、日本手話をやってそれから書記日本語を習得するのは容易じゃないと思うし、それをちゃんとできるのかが本当に疑問に感じているのです。

何故絶対視ができるのか

そして、いろいろ文献を読んでみて口話法も手話法もメリット・デメリット・失敗例とかを見るに当たって何故、それぞれのコミュニケーションの取り方を絶対視するのかが本当に分かりませんでした。どちらもリスクはあるというのに何で絶対成功するのかそう思うのかこれが本当に分からない。

言語の習得にあたって教育は無視できない

何故、教育の話を上げたのかというと冒頭の記事はあくまでも現在のその人のコミュニケーションの取り方について言及してるが、コミュニケーションの取り方にあたる言語の習得は最初、幼少期であってそれが後々に人間関係や人格にまで影響するし聴覚障害者のコミュニケーションの取り方が個人で違うのはこういう背景や歴史をあげたからである。聴覚障害者にとって言語の習得は聴者以上に複雑で厄介でそれは今まで教育が関わりすぎた部分でもあるから決してコミュニケーションの取り方にあれこれ言うのに無視できない案件なのである。

コミュニケーションにとるにあたって

そしてコミュニケーションをとるにあたって一番、重要なのはお互いの言いたいことがちゃんと伝わるかである。これが聴者の間でも意外と分かってない方が多く一方的になることもあるのだ。だから自分は正直、読唇、読話を用いた口話法ほど不確定な要素満載のものはしない時がある。そう、自分が話せても場所や状況によっては筆談やチャットを選ぶのである。自分は話をするならお互いに確実に伝わるようにしないと相手にも自分にも時間を奪う社交にしかすぎず凄く失礼な行為なんじゃないかと思う。

 

2年間の旅で200人以上の方々に会い、そして聴覚障害に関する文献も編集者の方のお孫さんに会って譲ってくれた経緯もありました。また、ネットだけでも取り扱いがほとんど無い専門書も他の地域で買えたりと良かった部分もありました。しかし、それ以上に自分が残念に感じたのは聴者でありながら自分が聴こえないことを知ると手話で話しかけてくる人が何人かいたのですがあいにくと自分は手話ができないと都度お話ししました。聴覚障害者がコミュニケーションの取り方にいろいろ思うのはこういった経緯があって、複雑だということを是非理解してもらわないと多分、いつまでたっても双方にとってコミュニケーションの違いだけでズレが出て話すらできなくて誤解が止まらないんじゃないかと思う

最後に参考にした文献をあげます。追々、これらの文献を掘り下げていこうかと。

  • 聴覚障害教育 これまでとこれから
  • たったひとりのクレオール
  • 口話教育の父 西川吉之助伝

では。